沖縄本島南部に佇む「ひめゆりの塔」は、1945年の沖縄戦で亡くなった沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校(現・沖縄県立首里高等学校)の女学生と教師たちを慰霊する碑です。わずか十代の少女たちが戦場の陰惨さに翻弄され、多くの尊い命が失われた歴史の証人として、今もなお平和の尊さを私たちに問いかけています。
ひめゆり学徒隊の悲劇








1945年(昭和20年)3月12日深夜、沖縄に米軍が上陸する直前、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒・教師あわせて約240名は、「ひめゆり学徒隊」として日本軍第32軍野戦病院に看護要員として動員されました。当時15歳から19歳だった彼女たちは南風原陸軍病院や壕(ごう)内で、医療の知識もままならないまま、重傷を負った兵士たちの看護や手術の補助にあたりました。
4月1日に米軍が沖縄本島に上陸すると戦況は激化。5月下旬には日本軍は南部への撤退を開始し、学徒隊も本島南部の伊原(いはら)第三外科壕などへ移動を余儀なくされました。
「解散命令」という名の見捨て
1945年(昭和20年)6月18日から19日にかけて、日本軍は突如として学徒隊に解散命令を出しました。しかし、この時すでに沖縄本島南部は激しい地上戦の最中。逃げ場のない戦場で、組織的な保護もなく放り出された少女たちを待っていたのは、米軍の攻撃、飢え、そして絶望でした。
伊原第三外科壕では、米軍の馬乗り攻撃(壕の入口を制圧し、内部にガソリンを注いで火炎放射器で焼き払う戦法)により、多くの学徒が犠牲となりました。壕内で火炎に包まれ、あるいは毒ガス攻撃により命を落とした少女たち。一方で、投降しようとした者の中には、「捕虜になることは恥」とする当時の日本軍の思想から、日本兵によって制止され、時には殺害された例もありました。
職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名が沖縄戦で命を落としました。その多くが解散命令後のわずか数日間に集中しています。
ひめゆりの塔の誕生
戦後、1946年4月に糸満市にあった伊原第三外科壕の跡地に、ひめゆり学徒隊の生存者や遺族らによって最初の慰霊碑が建てられました。これが「ひめゆりの塔」の始まりです。
塔の名前は、両校の学校誌「乙姫」と「白百合」を組み合わせたものに由来し、「ひめゆり」という響きに、失われた若き命への追悼の想いが込められています。
現在の塔は1989年に再建されたもので、その下には当時使用されていた実際の壕が今も残されています。
ひめゆりの塔と平和祈念資料館
「ひめゆりの塔」は1946年(昭和21)4月、生存者や遺族によって建立された慰霊碑です。1989年(平成元)年6月23日には、その証言を後世に伝えるため、「ひめゆり平和祈念資料館」が開設されました。資料館は生存者である「ひめゆり同窓会」によって設立され、戦争の真実と平和の尊さを伝え続けています。
館内では、生存者の証言映像、当時の写真、壕の実物大模型などを通して、沖縄戦とひめゆり学徒隊の実相を知ることができます。火炎放射器による攻撃や、日本軍・米軍双方から見放された民間人の苦難、そして若き命が翻弄された悲しみを、包み隠さず展示しています。
平和への願い
ひめゆりの塔と資料館は、単なる観光地ではありません。ここは戦争の悲惨さと平和の尊さを学ぶ場所であり、未来への誓いの場でもあります。罪のない若者たちの命が奪われた歴史を直視し、私たちは「二度と戦争を繰り返さない」という強い決意を新たにすることができます。
今を生きる私たちが訪れ、戦争の真実に向き合うことは、平和な未来を築くための第一歩です。若き女学生たちの無念を胸に刻み、平和の尊さを改めて考える機会として、ぜひひめゆりの塔と平和祈念資料館を訪れてみてください。
沖縄の青い空の下、静かに佇むひめゆりの塔、 そこには、今も変わらず、平和への祈りが込められています。
アクセス情報
住所: 〒901-0344 沖縄県糸満市字伊原671-1
公式HP:https://www.himeyuri.or.jp/
電話番号:098-997-2100
開館時間: 9:00~17:30(入館は17:00まで)
休館日: 年中無休
入館料(個人): 大人450円、高校生250円、小中学生150円※2025年10月時点
アクセス: 那覇空港から車で約40分、那覇バスターミナルから路線バス(糸満行き)で約1時間「ひめゆりの塔前」下車すぐ(※乗り継ぎあり)
